2009年06月23日

青森県外での受信状況

秋田県大館市の一部では高利得FMアンテナまたはVHFローバンド(1-3ch)専用アンテナを青森方向に設置し青森放送(青森本局・1ch)を受信している家庭がある(同じNNS系列の一部番組において、非フルネット局の秋田放送が日本テレビと同時ネットしていない番組があり、逆にFNSの一部番組は青森放送で遅れネットのため、それぞれ2回楽しめる)。同時にNHK青森放送局の総合テレビ3chも受信可能。
北海道渡島支庁の一部地域でも、鷹森山の青森本局・アナログ放送1chや近くの中継局(主に大間中継局、今別中継局など)からの電波で受信可能であるため、北海道の民放で2011年のアナログ放送終了まで実施されないことになったアナログ波の音声多重放送や札幌テレビ(STV)では放送されていない日本テレビ系列のごく一部の番組(主に『ズームイン!!SUPER』の第1部の全パートと第2部の一部パート、『ズームイン!!サタデー』の5:30〜6:30のパート、およびローカルのプロ野球中継で休止される『サプライズ MONDAY to FRIDAY』や時差ネットとなる20時台の番組など)をリアルタイムで楽しむことができる。
また、大館市の一部と北海道渡島地方の一部地域では高利得UHFアンテナを馬ノ神山方向に向けて使用している場合、馬ノ神山から送信される地上デジタル放送(UHF28ch)が受信できる可能性もある。この場合、RABの3桁チャンネル番号に枝番が付けられる(北海道ではHBC北海道放送、秋田県はNHK秋田総合テレビがそれぞれリモコンキーID「1」を使用しているため)。

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東奥日報ニュース(随時・放送時間はこちらを参照)※HD
あさ一番てるてる天気(月〜金曜5:15〜5:20)※タイトル表示のみHD
RABニュースレーダー(月〜金18:16〜19:00)※HD
スーパーロックライン(火曜25:26〜25:56)※HD
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江奈滋家の食卓(毎月第2日曜16:30〜17:00)※HD
ニュートンのりんご(毎月第2日曜17:00〜17:15、再放送:毎月第4日曜7:30〜7:45)※HD
特別営業課(不定期放送、再放送もあり)※HD
スポット弘前(不定期放送)※HD
青森県民駅伝競走大会(9月第1日曜11:00〜14:30)※HD
全国高等学校サッカー選手権大会・青森県大会決勝(11月第1日曜11:55〜13:45・最大延長14:00)※HD
津軽弁の日(年末放送)※HD
清水圭のええで?!あおもり(年2回放送)※HD
県南グルメ・宴会マル得情報(年2回放送) - 八戸支社制作
青森県民謡グランプリ(本選は毎年3月に放送)
青森県前期高校入試速報(2月下旬入試終了後の15:50〜16:45に放送・深夜に再放送を実施)※HD

2009年06月09日

統帥権(とうすいけん)とは、軍への最高指揮監督権を言う

近代日本では大日本帝国憲法第11条が定めていた天皇大権のひとつである陸軍や、海軍への統帥の権能を指す。その内容は陸海軍の組織と編制などの制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などの権である。これらは陸軍では陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令部総長に委託され、大臣は軍政権を、参謀総長・軍令部総長は軍令権をになった。
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惑星のお話
香り・情報
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知って・マナー
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棚田
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四国
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フラメンコ
昆虫
医用生体工学
上場
バイアスロン

狭い意味では天皇が軍事の専門家である参謀総長・軍令部総長に委託した戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさして統帥権ともいう。

明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が補弼することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた[1][2]。

この軍令と国務大臣が補弼するところの軍政(軍に関する行政事務)の範囲についての争い[3]が原因で統帥権干犯問題が発生する。この明治憲法が抱えていた欠陥が1940年(昭和15年)より終戦に至るまでの日本の国家社会主義化を助長した点は否めない。

なお、統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性をおそれたこと、それといささか矛盾するが、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握していたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代に楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川で戦死し、南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたことなどがあげられる。

2009年06月06日

赤備え(あかぞなえ)は戦国時代の軍団

赤備え(あかぞなえ)は戦国時代の軍団編成の一種で、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時赤は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。

武田軍にて赤備えを最初に率いたのは後代に『甲山の猛虎』とも謳われた飯富虎昌である。永禄8年(1565年)に虎昌が義信事件に連座し切腹すると、虎昌の部隊は彼の実弟(甥とも)とされる山県昌景が引継ぎ、同時に赤備えも継承したという。飯富虎昌・山県昌景の両者は『甲陽軍艦』において武勇に秀でるとともに武田家及び武田軍の中心として活躍した武将として記されており、両名の活躍が赤備えの価値を高めたと言える。また、『軍鑑』によれば武田家中ではこの2将以外にも小幡信貞、浅利信種の2名が自部隊を赤備えとしたという。

発給文書においては、元亀3年・天正2年の武田信豊宛武田家朱印状など武田氏の軍制において装備外装に関する規定が存在していたことを示す文書が見られる。元亀3年文書では信玄が信豊に対し装備を朱色で統一することを独占的に認められており、天正2年文書では武田勝頼により信豊の一手衆が黒出立を使用することを許可されており(これは『軍鑑』や『信長公記』長篠合戦時における記述と符号している)、武田軍では一手衆ごとに色彩を含めて兵装の規格化が整えられていたと考えられている。

武田氏滅亡後、本能寺の変の混乱を経て甲斐国は徳川家康によって平定されるが、その折に武田家の旧臣達を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。以後幕末に至るまで井伊家の軍装は赤備えをもって基本とされた。

家康が大坂の役の折、煌びやかな直孝隊を見て平和な時代で堕ちた赤備えを嘆いた。その中で使い古された具足を身に付けている者達を発見し、「あの者らは甲州からの家臣団であろう」と言い、確認が取れると「あれこそが本来の赤備え」と言ったという。
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1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では井伊直憲率いる彦根藩が芸州口の先鋒を務めた。長州藩のミニエー銃に対し、彦根藩は赤備えに火縄銃という古来より伝わる兵装で挑むが、小瀬川を渡ろうとした所を長州軍石川小五郎率いる遊撃隊のアウトレンジ戦法を受け一方的に敗れる。この時、赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。

慶長20年(1615年)大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が編成した。敗色濃厚な豊臣家の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示す事だったと言われている。武田家伝統の赤備えで編成した真田信繁隊は、天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、『真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由』と薩摩旧記(島津家)に賞賛される活躍を見せた。

2009年04月22日

地域の皇帝

ペルシア帝国
イスラム化以前にメソポタミア・イランを支配したアケメネス朝・サーサーン朝のシャーにも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「大王」「帝王」といった訳が用いられることの方が多いようである)。パルティアやペルシアの君主は「諸王の王」という称号を用い、他の「王」より格上であると称していた。

イスラム圏
イスラム世界の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していたカリフ、スルタン、シャー(パーディシャー)に「皇帝」の訳をあてることが多い。これに対して、マリクには「王」、アミールには「首長」の語が定訳とされ、「皇帝」と訳されることはあまりない。アミールの上位号には 大アミール、アミール・アル=ムスリミーン、アミール・アル=ムウミニーンがある。

オスマン帝国の歴代スルタンの中でも、東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世や最盛期のスルタンであるスレイマン1世は、東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝、「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている(講談社選書メチエ 新井政美著『オスマンvs.ヨーロッパ―〈トルコの脅威〉とは何だったのか』より)。

イスラム帝国(カリフ)
オスマン帝国(カリフ、スルタン、パーディシャー)
ムガル帝国(パーディシャー)
サファヴィー朝(シャー)
インド
イギリスの王は、ムガル帝国を滅ぼしてインドを植民地にした際、インド帝国の皇帝を兼ねる形をとった。このインド皇帝位はインド独立時に返上された。なお、イギリス帝国とは、16世紀から20世紀半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏を指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。古代インドにおいては直訳すると大王となるマハーラージャが用いられ、グプタ朝等において、直訳すると「大王の王」となる独自の皇帝号「マハーラージャディラージャ」も存在していた。
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中・南アメリカ
ヨーロッパ人が訪れる以前に中南米の先住民が築いた国家のうち、インカ帝国とアステカ帝国は、いつくかの諸国を征服・支配し、広大な領土を持ち、国家連合・連邦のようなものを形成しており、それぞれ「帝国」と呼ばれている。従ってインカ帝国の君主「サパ・インカ」とアステカ帝国の君主には、「皇帝」の語が当てられている。しかしアステカ帝国の場合、広大と言っても現在のメキシコの領域内に過ぎず、またトラスカラ王国という同格のライバル国家も存在した事から、「アステカ王国」と呼ばれる事も多々あり、その場合は君主も「アステカ王」と呼ばれる。

アフリカ
西アフリカのガーナ、マリ、ソンガイの各君主を「皇帝」と訳すことがある。「王」とすることも多い。

エチオピアでは1974年に皇帝(ネグサ・ナガスト=「王の中の王」)ハイレ・セラシエ1世が革命で廃位されるまで帝政が敷かれ、皇帝が専制君主として統治していた。

また中央アフリカ共和国の大統領だったジャン=ベデル・ボカサ(ボカサ1世)が1976年に皇帝を称し、国名を中央アフリカ帝国としたが、1979年のクーデターにより皇帝ボカサは失脚し、中央アフリカは共和制に復帰した。

自称皇帝
ノートン1世(アメリカ合衆国)
熊沢寛道(自称天皇)

皇帝に即位したものの広く認められなかった人物
袁術(後漢)
宇文化及(隋)
安禄山(唐)
袁世凱(中華帝国皇帝)

ニックネームとして
スポーツ界では一流、特に世界最強クラスで圧倒的な実力を持ち君臨する選手に、尊敬と畏敬の念を込めて「皇帝」との愛称が付く場合もある。

皇帝と呼ばれる選手
フランツ・ベッケンバウアー(サッカー選手)
ミヒャエル・バラック(サッカー選手 ※ 小皇帝とも)
ミハエル・シューマッハ(F1ドライバー)
エメリヤーエンコ・ヒョードル(総合格闘家)
ハイレ・ゲブレセラシエ(陸上長距離)

2009年04月18日

生態系

生態学における生態系(せいたいけい, Ecosystem)は生物群集やそれらをとりまく環境を、ある程度閉じた系であると見なしたとき、それをさしてこう呼ぶ。
ある一定の区域に存在する生物と、それを取り巻く非生物的環境をまとめ、ある程度閉じた一つの系と見なすとき、これを生態系と呼ぶ。

生態系は生態学的な単位として相互作用する動的で複雑な総体である。

生態系という語は1935年にイギリスの生態学者アーサー・タンズリーの論文に初めて現れる。しかし、実際にこの語を作り出したのはタンズリーの同僚のロイ・クラファンだった (1930年)。

生態系の成り立ち
生態系の生物部分は大きく、生産者、消費者、分解者に区分される。植物(生産者)が太陽光から系にエネルギーを取り込み、これを動物などが利用していく(消費者)。遺体や排泄物などは主に微生物によって利用され、さらにこれを食べる生物が存在する(分解者)。 これらの過程を通じて生産者が取り込んだエネルギーは消費されていき、生物体を構成していた物質は無機化されていく。それらは再び植物や微生物を起点に食物連鎖に取り込まれる。これを物質循環という。

ある地域の生物を見たとき、そこには動物、植物、菌類その他、様々な生物が生息している。これを生物群集というが、その種の組み合わせは、でたらめなものではなく、同じような環境ならば、ある程度共通な組み合わせが存在する。 それらの間には捕食被食、競争、共生、寄生、その他様々な関係がある。捕食-被食関係のような生物間のエネルギーの流れを食物連鎖と呼ぶが、近年ではその複雑さを強調して食物網(food web)が用いられることが多い。

食物網を見渡すとき、植物、それを食べる植食者、さらにそれを食べる肉食者というように生きたものを起点とする食物網がある。これに対して、生物の遺体や排出物を起点として微生物がこれを利用し、さらにそれを他の生き物が利用する食物網がある。前者を生食食物網(grazing food web)、後者を腐食食物網(detrital food web)と呼ぶ。実際には両者は所々でつながっており完全に独立したものではない。

どちらの食物網においても植物による光合成を起点として、エネルギーが何段階もの生物を経由していくことがわかる。これらを生産者、一次消費者、二次消費者あるいは一次分解者、二次分解者というように呼び、このような段階を栄養段階(trophic level)と呼ぶ。

通常ある生態系における生物群は他の生物間や環境とバランスのとれた関係になっている。新たな環境因子や生物種などの導入は著しい変化を及ぼし、生態系の崩壊や在来種の絶滅などを引き起こす事も考えられる。

物質循環とエネルギーの流れ
生態系内の物質は、様々な形で循環していると考えられる。

個々の元素を見ると、このような関係の中で、食物連鎖や分解によって生物環を移動し、ある時は非生物的な環境を経由して生物のところに戻る、大きな循環をなしている。これを物質循環という。

これを炭素を中心に見れば、光合成で作られた有機物が食う食われるの関係の中を移動し、また動植物遺体や排泄物等を通じて分解者へ流れる。また、個々の生物の呼吸によって有機物は二酸化炭素として排出され、一部は光合成に利用され、また一部は大気に逃げ、あるいは水に溶ける。これらを炭素の循環という。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

窒素や硫黄を中心に考えた場合、炭素とはやや異なった循環がある。特に窒素は生物体にとってタンパク質の材料に必須の元素である。動物は窒素同化能が低いので、無機窒素を排出する。植物は無機窒素を吸収して有機窒素化合物を合成できる。したがって、動物は植物が合成した有機窒素化合物に依存している。大気中には気体窒素が多量にあるが、生物はほとんどこれを利用できず、落雷などの際に合成されるアンモニアの形で、あるいは一部の窒素固定能のある微生物の働きを通じて利用可能となる。

物質は生態系の中を循環しているが、エネルギーは流れている。動物の活動のエネルギーは、元をたどれば植物の光合成によって合成されたものに依存している。光合成は太陽エネルギーによっている。

様々な生態系
生態系は広大な森林から小さな池まで様々な大きさのものがある。それぞれの生態系は砂漠や山地、海や川など地理学的な障壁で分離されていることが多い。あるいは、このような障壁で分離されている場合に、その内部をひとつのまとまりと見なしやすい。これらの境界は絶対的なものではないため、生態系どうしが混ざりあう。その結果、スケールの視点を変えることで、地球全体を一つの生態系と見たり、逆に湖をいくつかの生態系に分割したりすることができる。

一般には、見かけのはっきり違う自然環境は、それぞれを独立の生態系と見なす。例えば森林生態系とか、海洋生態系などと呼ぶ。池沼などは、輪郭がはっきりしているので、それを独立したものと見なすのは何となく納得がいくが、実際には多くの物質が流入放出され、また多くの生物が出入りする。そのことを前提にして考える必要はある。

生態系を構築する試み
生態系は、理想的には外部からの太陽エネルギーの供給のみで、その中に生物群集の生存を維持するしくみと見ることができる。このことは、その群集の構成員として人間を捉えれば、人類が生き延びるしくみそのものである。

たとえば、空想的ではあるが、他の星までの宇宙旅行を考える。当然ながら長い年月がかかるので、その間に必要な食料、水、空気をすべて持参することはできない。これを解決する方法として、当然考えられるのが、生態系を作ればよい、というものである。宇宙船内で植物が育ち、それを食べて動物が育ち、それらの一部を食料とし、排泄物などの処理もそれらに任せるわけである。 想定外の様々なトラブルを起こしながらも、1991年からアリゾナ州オラクルで行われた「バイオスフィア2」をはじめ、実際にこのような意図での実験が行われてもいる。しかし、理論的にはできるはずであるが、実験的にこのような系を構成することは、なかなかに困難であって、次第にバランスを崩すことが多い。これらの実験における失敗例では、分解者などとして機能している微生物の活動量を低く見積もりすぎ、次第に閉鎖環境内の酸素濃度が低下して、実験打ち切りに至っていることが多い。

ところが、物質の出入りを完全に排除し、出入りするのはエネルギーのみとすることを意図しなければ、このような系を作るのは実に簡単である。たとえば藁の煮出し汁などをフラスコに入れ、池の水を一滴垂らす。たちまち細菌類が増殖し、水は濁るが、1週間もすると水は澄んできて、原生動物が出現したことがわかる。そのまま放置すれば藻類やワムシなど、出現種数は次第に増加し、そのまま口を閉じておいても、長い間これらの生物は共存し続ける。これは、ごく簡単な生態系の再現である。なお、この際、瓶の口を綿栓などで覆った場合は空気の出入りは自由になるので、密閉容器内にこれを入れれば真に隔離した系が得られる。この場合、囲い込まれた空気の量が多いほど、安定が長く維持される傾向があるという。内部における微小な変動を弾力的に受けとめられることによるとも言われる。

2009年04月04日

同部屋・4親等以内の取組回避

1965年(昭和40年)1月場所以降は部屋別総当たり制となっているので、同部屋の力士は本割では対戦が組まれない。部屋が異なる場合でも兄弟・従兄弟・叔父と甥などの血縁者同士の場合は、本割では対戦が組まれない。

1963年(昭和37年)11月場所12日目、幕下最後の一番で3勝2敗同士の長谷川(西2枚目・佐渡ヶ嶽部屋、現秀ノ山)?四季の花(西6枚目・宮城野部屋)戦が組まれていたが、叔父と甥の血縁関係(四季の花の姉が長谷川の母親)に当たるという理由でこの取組が削除されるという出来事があった。両力士の6番相撲は14日目に、それぞれ別の力士と組まれた(相手力士は勿論既に6番を消化しているので、番数違いの対戦ということになった)。因みに、以前より宮城野親方(第43代横綱吉葉山)から2人を対戦させないように審判部に申し入れが出されていたものの、両者は2回対戦している(1回目は1962年(昭和36年)9月場所初日、2回目は1963年(昭和37年)3月場所3日目。結果は四季の花の2戦2勝)。従って、「血縁者同士は対戦しない」という不文律はこの取組を境に定着したものと推察される。

これまで不文律とされていたが、2009年1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。また従来は審判部の内規で、入門時の申請に基づいて兄弟などの取組は回避してきたが、2009年1月場所において光龍と翔天狼が互いに親戚関係だと訴え、追跡調査をする事例が発生したことから、入門時点で親戚関係も明記させることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる[1] 。

優勝決定戦における同部屋・兄弟による優勝決定戦の代表的な例は、1995年(平成7年)11月場所の3代若乃花?貴乃花がある。

取組表 [編集]
奇数日は東が上位、偶数日は西が上位となっている。呼出による力士の呼び上げも、奇数日は東方から、偶数日は西方から呼び上げる。

お好み [編集]
地方巡業などでは、勧進元や観客の要望に応える形で組まれる取組も多く、こうした取組は「お好み」と呼ばれる。本場所で見ることのできない同部屋対戦や、地元出身の注目力士と横綱、大関との取組などが好まれる。

意味合いは違うが、昭和天皇が威勢の良い相撲を好んだためもあり、昭和の天覧相撲では富士櫻(現中村)?麒麟児(現北陣)戦など激しい突っ張り合いが期待される取組を組むのが恒例になっていた。

エピソード [編集]
1791年(寛政3年)4月場所より、幕内力士は千秋楽に出場せず、幕下以下力士のみの取組となった。これは1909年(明治42年)頃まで続いた。
1909年6月場所、両国に常設館(旧両国国技館)が開館され、江戸時代より続いた晴天10日間興行が晴雨に関わらず10日間興行と改められ、それまで幕内力士は千秋楽を休場していたものが10日間皆勤出場となり、幕内力士にも千秋楽の取組が行われるようになった。
1953年(昭和28年)3月場所3日目の取組表は、結びの一番関脇三根山?横綱東富士戦を除く序ノ口からの取組114番すべての東西を入れ違えて印刷してしまい、その「割」のまま最後まで押し切ったため、東西を間違える力士が続出。十両、幕内の土俵入りも各力士が混迷するという事態が起きた。
1972年1月場所初日、いきなり横綱北の富士?大関琴櫻戦が組まれ(初日の横綱?大関戦は史上初)、翌2日目には大関同士の清國?前の山(現高田川)戦が組まれている。これ以降、翌1973年11月場所まで毎場所、序盤戦5日目までに組まれた横綱?大関戦および大関同士の取組は全部で18番ある。このうち横綱?大関戦が6番、大関同士の取組が12番ある。しかし翌1974年(昭和49年)は5月場所4日目の大麒麟?北の湖戦の大関同士1番のみだった。また1977年(昭和52年)には、同じく5日目までに組まれた横綱?大関戦は4番、大関同士の取組は5番という記録が残っている。この年は3月場所から9月場所まで5大関(貴ノ花、若三杉(のち2代若乃花、現間垣)、魁傑(現放駒)、三重ノ海(現武蔵川)、旭國(現大島))がいたため、下位に各同部屋力士もいることから取組編成上、前半戦までに対戦することもあった。取組の詳細は下記の通り(すべて5日目までの取組、太字は横綱)。
1972年(横綱?大関3番、大関同士6番)
1月場所 初日 ●北の富士 ? 琴 櫻○、 2日目 ○清 國 ? 前の山●
この場所千秋楽結びの一番に、前頭5枚目栃東(現玉ノ井)?清國戦が組まれたが、平幕力士が千秋楽結びで相撲を取るのは異例中の異例で、清國を破った栃東は史上初めて平幕力士として千秋楽結びで白星をあげた(11勝4敗で初優勝)。なお、同年5月場所千秋楽結びで前頭7枚目高見山(現東関)?大関清國戦(清國の勝利)、翌1973年11月場所にも千秋楽結びで前頭7枚目天龍(現プロレスラー)?横綱琴櫻戦(琴櫻の勝利)と、わずか2年間に3番も千秋楽結びの一番に平幕力士が土俵に上がった。ちなみにこの2年間に千秋楽結び前の取組に出場した平幕力士は1972年7月場所の北の湖(7枚目、対大関琴櫻)、同年9月場所の栃東(4枚目、対大関琴櫻)、1973年3月場所の富士櫻(現中村、12枚目、対大関輪島)、同年9月場所の高見山(4枚目、対大関貴ノ花)の4人。
3月場所 初日 ○前の山 ? 大麒麟●、 5日目 ○北の富士 ? 大麒麟●
5月場所 2日目 ○大麒麟 ? 琴 櫻●
7月場所 3日目 ●琴 櫻 ? 清 國○
この場所、横綱北の富士が全休し、大関大麒麟も5日目から休場したので、結果的に大関以上同士の取組はこの一番だけで、千秋楽結びの一番は、大関清國と関脇長谷川の対戦になった。
9月場所 5日目 ○北の富士 ? 大麒麟●
11月場所 初日 ○輪 島 ? 大麒麟●、 3日目 ●清 國 ? 琴 櫻○
1973年(横綱?大関3番、大関同士6番)
1月場所 2日目 ●清 國 ? 琴 櫻○、 4日目 ○大麒麟 ? 貴ノ花●
3月場所 2日目 ●大麒麟 ? 清 國○、 5日目 ●琴 櫻 ? 清 國○
5月場所 4日目 ●清 國 ? 貴ノ花○
7月場所 5日目 ●大麒麟 ? 琴 櫻○
9月場所 4日目 ●大麒麟 ? 清 國○
11月場所 3日目 ○大麒麟 ? 貴ノ花●、 4日目 ●清 國 ? 輪 島○
1974年(大関同士1番)
5月場所 4日目 ●大麒麟 ? 北の湖○
1977年(横綱?大関4番、大関同士5番)
3月場所 初日 ○貴ノ花 ? 旭 國●、 4日目 ○北の湖 ? 三重ノ海●
5月場所 3日目 ○旭 國 ? 三重ノ海●、 5日目 ○北の湖 ? 魁 傑●
7月場所 3日目 ○旭 國 ? 三重ノ海●、 5日目 ○北の湖 ? 魁 傑●
9月場所 3日目 ○輪 島 ? 三重ノ海●、 4日目 ○旭 國 ? 魁 傑●、
      5日目 ○魁 傑 ? 三重ノ海●
ちなみに1970年(昭和45年)以降の横綱?関脇戦、大関?関脇戦の序盤戦5日目までの取組となると、横綱?関脇戦では1970年3月場所から翌1971年(昭和46年)11月場所まで毎場所あり、全部で21番。1973年1月場所から翌1974年7月場所にも毎場所あり、全部で18番の取組があった。大関?関脇戦では1970年11月場所から1974年9月場所まで5年にわたり毎場所あり、全部で69番の取組がある。
史上最多の関脇5人の番付となった1972年7月場所、前頭筆頭の豊山(現湊)は、ただ一人関脇5人全員との取組(2日目-対三重ノ海、3日目-対魁傑、6日目-対貴ノ花、8日目-対輪島、9日目-対長谷川)があった。豊山は三重ノ海、貴ノ花には敗れたが魁傑、輪島、長谷川に勝ち、3大関(大麒麟、清國、琴櫻)からも白星を挙げ(対大麒麟は不戦勝)、10勝5敗の活躍で翌場所の三役昇進を決めた。
1994年(平成6年)1月場所3日目、序二段の取組に、あわや同部屋同士の対戦となりそうなミスがあった。周防山?滝下の一番で、ともに押尾川部屋の力士。もちろん事前にわかったため、「相撲はありませんので、あらかじめご了承ください」の場内アナウンスがあり、取組は削除された。同様な前例として1987年(昭和62年)11月場所7日目に、同じ序二段で東関部屋力士同士、武田?高見富士の取組があり、同様に削除された。
同年5月場所3日目、幕内前半戦で元大関同士の前頭5枚目小錦?同11枚目霧島(現陸奥)戦は1959年(昭和34年)3月場所の前頭19枚目大内山?同8枚目三根山戦以来35年ぶりの元大関同士の取組となったが、その上優勝経験者同士の取組となると、小錦?霧島戦が史上初めてとなった。
同年5月場所千秋楽、一人横綱曙の途中休場の関係で、結びの一番は大関貴ノ浪(現音羽山)?関脇琴錦(現荒磯)戦。琴錦が一方的に貴ノ浪を押し出して勝利したが、千秋楽結びで関脇が勝ったのは、1955年(昭和30年)3月場所の大内山(対横綱千代の山戦)以来39年ぶりだった。
同年7月場所3日目、十両の蒼樹山(現枝川)?若翔洋戦が組まれたが、東から登場すべき蒼樹山(東筆頭)が西から登場し、西から登場すべき若翔洋(東6枚目)が東から登場した。幕下以下では東西逆に登場することは時々あるが十両以上では珍しく、この日は休場力士による割返しも行われていなかったという。
1996年(平成8年)11月場所、横綱貴乃花は場所前の巡業で、脇腹をひねり背筋に肉離れを起こしていた。強行出場するつもりだったが、初日前日、出場から一転休場することになった。この日発表された初日および2日目の取組は、急遽佐渡ヶ嶽審判部長(元横綱・琴櫻)をはじめ、審判委員を招集し割り返しが行われた。貴乃花1人の休場で幕内は20番のうち16番、十両に至っては13番すべての取組が変更になった。初日前日に取組が変更になった前例は、1975年(昭和50年)3月場所、横綱北の湖と対戦する予定だった小結旭國が膵臓炎で入院、「初日から横綱が不戦勝では格好がつかない」と判断され割り返しが行われ(北の湖は西関脇黒姫山(現武隈)と対戦)、それ以来21年ぶりの珍事だった。
2000年(平成12年)3月場所、本来ならあるべき横綱同士の対戦がなくなるという異例の事態が起きた。12日目まで幕尻の前頭14枚目貴闘力(現大嶽)が全勝、13日目に武蔵丸(現振分)、14日目に曙の両横綱と対戦しており、横綱同士の対戦は14日目の武蔵丸?貴乃花戦、千秋楽の貴乃花?曙戦の2番で、貴闘力の活躍で曙?武蔵丸の取組がなくなるという史上初めての珍事となった。幕尻の力士が好成績で横綱と対戦するのも、1979年(昭和54年)9月場所13日目に前頭14枚目の朝汐(現高砂)が横綱三重ノ海と対戦して以来2度目であった。幕尻の貴闘力が2日連続で横綱戦に割が組まれたのも、横綱同士の対戦より優勝争いを優先する取組として割が組まれている。貴闘力は両横綱には敗れたが、千秋楽関脇雅山を破り、13勝2敗で見事初優勝を果たした。
2002年(平成14年)1月場所2日目、序二段の取組で一ノ矢?三杉守戦が組まれ一ノ矢が勝利したが、この取組は一ノ矢41歳、三杉守17歳。歳の差24歳という最多年齢差勝利の記録を作った。戦後では1982年(昭和57年)に牧本(41歳)?東昌邦(17歳)の取組があり、この記録に並んだ。

ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

2009年03月20日

瀋陽故宮(しんようこきゅう)

瀋陽故宮(しんようこきゅう)は中国の遼寧省瀋陽市内に残る清の離宮である。

北京の故宮と並んで保存状態の良い封建時代の中国の皇帝の皇居である。建築様式は漢民族、満州民族、蒙古民族の様式が融合している。規模は北京の故宮の12分の1である。1625年に建てられた後金の2人の皇帝・ヌルハチとホンタイジの皇居で、清の入関後は引き続き離宮として用いられた。

1961年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定された。2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮に追加登録された。現在は瀋陽故宮博物院として一般公開されている。


建築物 [編集]
敷地内は主に東院、中院、西院に分けられる。


東院 [編集]
東院は瀋陽故宮の中でも最も古くから建てられた主にヌルハチ時代の建物で主な建物に大政殿や十王亭がある。ホンタイジの時代には行事の時しか使われないようになった。 大政殿は東院の正殿で八角形をしており、世界唯一の建築様式で、移動式テント・ゲルを真似ている。正面の2つの柱には皇帝の象徴・金の龍が絡み付いている。 十王亭は右大臣に相当する右翼王と左大臣に相当する左翼王の執務室と八旗それぞれの建物それぞれ10の建物で、大政殿前の広場の左右にある。


中院 [編集]
中院は瀋陽故宮の中でもホンタイジ時代の建物で、主な建物には崇政殿、清寧宮、鳳凰楼がある。崇政殿は中院の正殿で、ホンタイジの執務室である。鳳凰楼は瀋陽故宮の中でも最も高い建物で3層から成る。3層目からは皇帝が酒を飲みながら月を見たという。清寧宮は皇帝と皇后の寝室と側室の寝室4棟が並ぶ皇帝とその家族の生活空間であった。

ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

西院 [編集]
西院は清の入関後引き続き離宮として建てられ続けた建物である。『四庫全書』が収められていた文溯閣がある。

2009年03月05日

角(アリコーン)には解毒作用

ユニコーンの角(アリコーン)には解毒作用があると考えられ、教皇パウルス3世は大枚をはたいてそれを求めたという。また、フランス宮廷では食物の毒の検証に用いられたと伝えられる。言い伝えに拠れば、ユニコーンの角は毒に触れると無毒化する効果があるとされたが、後に毒物の成分が含まれた食物に触れると、汗をかくとか色が変化するなどの諸説も生まれたようである。

しかしこれらは北海に生息するイッカク(ウニコール)の角(実際には牙である)であった。これにより後々まで、ウニコールの名称で貴重な解毒薬や解熱剤・疱瘡の特効薬として珍重され、イッカククジラの角は多数売買された。しかし一部には、これらウニコールと偽って、セイウチの牙を売る商人も後を絶たなかったようだ。またその一部はオランダ経由で、江戸時代の日本にも輸入されていた。

当時の医学書には、真面目にウニコールの薬効に関しての記述があった程である。特に疱瘡の治療薬という部分に関しては、ペストの流行により、非常に高価であったにも拘らず、飛ぶように売れたと云う記録も残っている。

これは元々、中国で毒の検知にサイの角を用いたのが伝播の過程で、一部の夢想家によって作り変えられた物である様であるが、実際問題として、当時用いられた毒物でも、酸性やアルカリ性の毒物の場合は、動物性タンパク質の変化により、黄変するなりして、毒の検知に役立ったと思われる。また中国ではサイの角の粉末を精力増強剤として扱っているが、興味深い事に、ウニコールが西欧から持ち込まれた際に、龍の角とも蛇の角とも言われ、解毒や毒の検知に非常に珍重されたとの事である。

ヨーロッパにユニコーンを最初に伝えたのは、ギリシアのクニドス島生まれの医師・歴史家、クテシアス(前4世紀後半)である。彼がペルシア王アルタクセルクセス・ムネモン(在位 前404-358)の医師を8年間、務めていた時の見聞をもとに書いた『インド誌』(Τα ?νδικά, 前390年頃)第45節には、次のように記されている。

インドには、ウマぐらいの大きさか、もしくはそれ以上の大きさの野生のロバがいる。その体は白く、頭は暗赤色で、目は紺色、そして、額に縦1キュビット(約44.46センチメートル)ほどの長さの一本の角を持つ。角の根元、額から約2パーム(約14.25センチメートル)の所は純白で、真ん中は黒く、尖った先端は燃えるような深紅色である。角で作った杯を飲用に用いれば、痙攣を起こすことも、癲癇にかかることもなくなり、毒物に対しても免疫効果があり、服毒前もしくは服毒後にこの杯を使って、酒なり、水なり、何がしろの飲み物を飲んでおけばよい。家畜化されたロバ、他国の野生のロバ、その他の単蹄の動物全てには、アストラガロス[6]も、胆嚢もないが、インドのロバは両方とも持っている。そのアストラガロスは、私が見てきたものの中で、最も美しく、大きさや形はウシのそれに似ている。鉛のように重く、隅々に至るまで肉桂色である。この動物は、非常に力強く、足が速く、ウマを含め、いかなる動物にも追いつかれることはない。初めのうちは、ゆっくりだが、長く走ればそれだけ歩様は驚くほど増し、どんどん速くなる。これを捕まえる唯一の方法は次の通りである。仔を連れて餌場に現れた時を狙い、大勢の騎馬で取り囲めば、仔を見捨てて逃げることはせず、角を突き出して戦い、蹴り上げ、噛み付き、殺し、狩人にもウマにもすさまじい攻撃を仕掛ける。だが結局は矢や投げ槍が当たって死ぬ。生け捕りにすることは出来ない。その肉はひどく苦く、食すこともままならないので、角とアストラガロスのためだけに狩られる。--クテシアス『インド誌』第45節

ユニコーンについての最初の記述は、現在のものとほぼ同じである。一本の角、解毒効果、俊敏さと獰猛さ、そして、姑息な方法を使わないと捕獲出来ないということなど既にこの時代から、ユニコーンの基本的な特徴についてほとんど記されていることがわかる。しかしクテシアスは実際にはインドに行ったことがなかった。

アリストテレス(前384-322)は、クテシアスからの報告を引用して『動物部分論』(Περι ζώων μορίων, 前350年頃)第3巻第2章の中で、次のように述べている。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

角のある動物の大部分は先の割れた蹄を持つが、インドロバと呼ばれる動物は単蹄であるにもかかわらず、角があると伝えられている。これらの動物の大部分は、左右二本の角を持つが、中には、たった一本しか角を持たないものもいる。例えば、オリックスといわゆるインドロバで、前者は、先の割れた蹄を持つが、後者は単蹄である。このような動物は頭の真ん中に角が生えている

2009年02月13日

幻燐の姫将軍2 〜導かれし魂の系譜〜

魔族の血を引く「半魔人」の青年リウイ・マーシルン。人間族の暴力により母を、「勇者」の侵略により父である魔神グラザを失った彼は、人間族への復讐を決意し叛旗を翻す。熾烈な戦争の中で次第に彼は「人間と闇夜の眷属が共存できる世界」を目指し、賛同した者達と共に、ラウルバーシュ大陸中原北部・レスペレント地方の東の小国、メンフィル王国国王の座を手に入れた(「幻燐の姫将軍」)。
ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

新王誕生より4年の歳月が流れ、周囲の風当たりも厳しさが和らいだ折、リウイはかねてからの夢である「人間族と魔族、及びその他の種族との共存」を叶えるべく、元カルッシャ第三王女であり現メンフィル王妃イリーナ・マーシルンと共に西の大国・カルッシャでの会談へと向かう

同会談はカルッシャ宮廷魔導師テネイラ・オストーフの尽力のもとに実現したものであり、人間と闇夜の眷属が国家の垣根を越えた歴史的会談になるはずであった。 しかし、突如身元不明の刺客が現れ会談は混戦状態に陥る。撃退したのも束の間、共存を願っていたテネイラ師は血溜まりに沈んでいた。 会談に同席していた「姫将軍」エクリア・テシュオスが倒れた刺客の鎧を剥ぐと、そこには魔族の姿があった。エクリアは彼らがメンフィルからの者であると判断。リウイは必死に否定したが聞き入れられず、這々の体でカルッシャを離れる。

会談は最悪の結末を迎え、あと一歩のところで掌からこぼれ落ちた夢…。果たしてリウイは近隣諸国との関係を改善し、自らが望む「全ての種族が共存する世界」を創り上げることができるのか、それとも…?

ゲームの進め方
舞台となるレスペレント地方の東の国・メンフィル王国からスタートし、基本的には西へ西へと歩を進めてカルッシャ王国を目指す。時間の経過は週単位で刻まれ、各国のキースポットへ出向く(その右上に、キャラクターの顔の絵や戦闘を意味する剣のマークなどがある場合)、仲間と視察に出かける、妻イリーナや側室(後述)の誰かと一夜を過ごすなどで1週が消費される。マップの中には「次はこの場所へ行かなければならない」という「重要拠点」が定められており、決められた週が経過すると強制的にその場所でのイベントが始まる。ひとつの拠点を制圧すると次の拠点が出現する、といった流れが繰り返されていく(制圧した後、少し時間をおいて次の拠点が出現する場合もある)。そして、1つの国を制覇すると、次はどこの国へと侵攻していくかを、基本的には2択で決定する。ストーリーの大まかな流れはこれで決まっていく。

戦闘パートは戦略性SLGの流れを汲んでいる。「味方ユニット」と呼ばれる、侵攻の際にリウイが仲間にしたキャラクターを戦闘マップ上に配置し(配置できる味方ユニットの上限はマップ毎に決められている)、移動、攻撃などのコマンドを駆使して勝利条件(マップ上にいる「敵ユニット」の殲滅、全てのスイッチの作動など)を満たすことが目的となる。時間経過は「Round(ラウンド)」と「Frame(フレーム)」で表し、500フレームを1ラウンドとして、決着がつくまで無限にラウンドを重ねる(ラウンドとラウンドの間で途中経過をセーブすることができる)。各コマンドには「行動力」というものが定められており、コマンド終了後にキャラクターが消費するフレームのことを示す。つまり、コマンドを少なくして次の行動に早く移ったり、逆にその場その場で行えるコマンドを最大限に使って敵を一気に攻撃していくなど、様々な「駆け引き」の重要性が秘められている。

登場国・人物紹介
ロウ値・カオス値とエンディング
このゲームには、ストーリーを通じて「Low(ロウ)値」及び「Chaos(カオス)値」なるパラメータが設定されている。端的に言えば、リウイの心の中及び周囲の評価を表したもので、リウイが穏やかな心で他国との交渉を行ない、また道徳的な行為を行なっていけばロウ値が上がり、逆に武力で国を抑えにかかったり本能の赴くままに破壊・陵辱を繰り返したりするとカオス値が上がっていく。そして、最終的なロウ値・カオス値の分布でエンディングが分かれていく。

側室
武力で制圧した国の姫や指導者は、側室として王城に招き入れることができる。メニューの「側室」コマンドを選び、キャラクターを選んで「奉仕1」「2」をさせることができるようになる。ちなみに、国家間の和平を達成し味方ユニットとなった場合は「盟友」となり、同じく「側室」コマンドで各地の視察に同行させることなどができる(これは側室となっても可能)。基本的には、側室に奉仕をさせるとカオス値が上がるので注意。また、町娘ユイも側室に入れることができる。

2009年01月27日

Su-33 (航空機)

Su-33(スホーイ33、スホイ33;ロシア語:Су-33スー・トリーッツァチ・トリー)とは、ロシアのスホーイの製造する戦闘機で、Su-27の艦上戦闘機版である。非公式な愛称として「シーフランカー」がある。初飛行は1990年(試験機は1984年、試作機は1987年)。NATOコードネームはフランカーD (Flanker-D)

Su-33の開発は、1970年代に旧ソビエト連邦が考案していた「新型AWACS計画」によって開始された。当初ソ連はスホーイ、ミコヤン、ヤコブレフに研究を指示した。このうちミコヤンはMiG-27にアレスティング・フックを取り付けて地上試験を行ったが、機体の旧式化により技術的な問題がある、という結果がでている。スホーイはT-10(Su-27の原型機)にカナードや着艦フックなどを取り付けテストを行い、1982年に8月28日に模型空母からの発艦に成功している。

Su-27を航空母艦での運用可能な海軍仕様にした試験機は1984年に初飛行した。この試験機は、Su-27に着艦フックを取り付けるなど、ごく一部の改造を行ったのみであった。本格的な艦載機仕様の試作機はその後制作され、Su-33Kの名称で1987年8月17日に初飛行した。

Su-33Kの量産型は1990年初飛行し、1991年にロシア海軍への引き渡しを開始している。1992年には実戦可能な状態で配備されている。

NATOコードネームの"フランカーD"はアメリカやイギリス連邦諸国などの国防省によって行われる航空機標準化調整委員会 (ASCC)によって決定した。

また、複座練習型としてSu-27KUB(後にSu-33UBに改名)が制作され、1999年4月29日に初飛行している。推力偏向装置付きエンジンを装備している事が後に発覚した。現在のところロシア海軍を含め採用はない。

Su-33は性能・構造はSu-27と殆ど変わらないが、前輪は着艦の衝撃に耐えられるよう二重タイヤに強化され、また機体後部には着艦フック・発艦時の揚力増加と上空での機動性を高めるため主翼前には全遊動式のカナード翼(上方7度、下方70度)を新たに装備されている。なお、地上型で見られた様な特徴的で長いテールコーンは短縮され、発着艦時に尾部を擦らない様にしている。

また、ほとんどの艦上機共通の空母格納庫での運用を考慮し主翼と水平尾翼が折畳み式に改造されている。

仕様

乗員: パイロット1名
全長: 21.19 m
全幅: 14.70 m(折りたたみ時:7.40m)
全高: 5.93 m
翼面積: 62.0 m?
空虚重量: 18,400 kg
運用時重量: 29,940 kg
エンジン:サチュルン/リューリカ AL-31K (アフターバーナー時最大 130.4 kN) × 2
燃料容量:11,775 l
最大離陸重量: 33,000 kg (空母運用時は30,000 kg)
性能
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

巡航速度:M 1.06
最大速度:M 2.165
航続距離:1,620 nm
離陸滑走距離:120 m
実用上昇限度:17,000 m
兵装

GSh-30 30mm機関砲 1門 最大150発
R-73空対空ミサイル 2発
各種ミサイルや爆弾の装着が可能なハードポイント 最大12箇所 最大重量8000kg

派生型
T-10K:Su-33の原型機。中華人民共和国がウクライナから1機輸入、艦上戦闘機の開発に役立てられている。
Su-33(Su-27K):艦上戦闘機型。ロシア海軍が採用。
Su-33UB (Su-27KUB):Su-33の複座型。推力偏向装置が付いたエンジンを装備している。